<ある>と<ない>の境目の匂い
冬、季節はずれにあたたかな日の朝は、山間から流れてくるつめたい川の流れから、茫とした川霧が立ち上がる。

向こうがまったく見えないかというとそうでもない。でも、向こうのすべてが見とおせるかというとそうでもない。世のせわしなさとはまるで無縁の、悠然としたすがたをしながら、今そこにあった霧だまりは次の瞬間、まわりのどこを探してももう見つからない。みぞれ降る深山の針葉樹林から、大水のたび川にしずむ中洲に今も立ち尽くす灌木から、河川敷いちめんの枯れた芝生に宿る朝露から、たとえどんなに淡くともたしかにそこにあった何ものかをいろいろと預かって、川霧は海へと向かい、おそらくは浜辺までたどり着く前に消えてなくなる。川べりのあちこちにそっと残された預かりものは、やがて堤防沿いの道路や橋をわたる車の列にかき混ぜられ、いつしか地を照らす日の光と自らを引き換えにして空へと、あるいはそのもっと向こうへと、還っていく。だからまだ昼とも夜ともつかぬこの時刻の、世のどれほど高貴な香木にも劣らぬほど時と距離を静かに秘めた川縁の香りを、ぼくは心から愛する。それがたとえ、<ある>ものであっても、<ない>ものであっても。







